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石坂公成先生、逝く(その4)

2018年07月11日 (水)

石坂公成先生に最期のお別れを告げ、お見送り出来たのも、先生のお導きがあったからこそ、と改めて受け止めております。

そもそも、石坂先生のご逝去を当日お知らせくださったのは、東京在住の医療界の方でした。

そして、一昨日のお通夜は、故人に三々五々にお悔やみを申し上げるのかと思っていたところ、きちんとした式典があったようで、結果的にその式典には参列できませんでしたが、祭壇前にお眠りになっておられる石坂先生にはしっかりと御礼を申し述べることが出来ました。

すると、高校同級で弁護士の阿部定治君に遭遇しました。
その様子から何か役割を果たしていることが分かりました。
石坂先生とのご縁をたずねると「後見人」を仰せつかっている、とのことでした。

阿部君に翌日の火葬から告別式までの段取りを伺うと、午前9時には出棺、とのことでした。

予定では10時半に火葬となっていますが、通夜会場から火葬場までは30分もあれば十分に到着する距離です。
なので、翌日の火葬には少し早めに、と思いながら、通夜会場を後にしました。

火葬当日の朝は9時半過ぎに火葬場に参りました。
すでに石坂先生や御遺族の方々合わせて20名ほど、すでにご到着しておられました。

着席ししてほどなく、火葬場関係者が喪主の裕さんに近づき、何かお声を掛け、裕さんも頷いておられました。
ちょうど10時、そのまま、最期のお別れ、となりました。

もしお通夜会場で阿部君に会わなければ、翌日の火葬には予定に従って10時半少し前に参っていたことでしょう。

ここに石坂先生のお導きを感ぜざるを得ません。

思えば、教育委員会委員長にご就任いただいた2006年12月も終わりに近づいた頃、ご就任当日に開催された同委員会で、「事務局案の追認になってはならない、活発な議論が必要」等々、早速「予定調和」の世界に疑問を投げかけた、と語っておられました。

そして、それからしばらくたった2012年6月に再会した折、このようなことをおっしゃっておられました。

「議会での答弁は自分で原稿を書いていました。時に、事務方から『修文要請』があったりしましたが、『そうであれば、あなたがお答えください』として、基本的に自説を通しました。」(ブログより抜萃)

石坂公成先生は、私にとって、恩人であるとともに「戦友」でもあり、唯一の真の良き理解者でもありました。

本当にお世話になりました。
ありがとうございました。

合掌。

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